山田太一 オフィシャルホームページ
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1.山田太一って奴は・・・。
2.教習所所長の責任感。
3.奇跡のイベント。
4.痴漢逮捕劇。
山田太一が教習所で働いていた事は、意外と知られていない。しかもただの教官ではない。
所長だ。
その当時の話、芸能界に進む直前の逸話だ。
教習所所長の責任感
教習所で働いていた時代、所長として任されつつがんばっていた時代
自分の仕事の広がりにも限界を感じ、東京にいこうと決意をした日
社長に二輪の教習を始めましょうと直訴をする。
当時、太一が働いていた教習所では二輪の教習はやっておらず、主に大型、大型二種、けん引、けん引二種、大特、大特二種、といった、四輪のエキスパートを育てる教習所であった。
太一は、自分がこの教習所を辞めるに当たり、何か置き土産を残したくて二輪の教習の直訴をしたのだった。この教習所で二輪が出来れば、間違いなく最高の教習所になる。
そう思ったのである。
しかし、社長の答えはノー!なぜなら、当時、保険制度も不備であった時代、事故でも起こったら大変だと言うのが社長の言い分だった。何年か前に、近隣の教習所で事故があったことが社長の気持ちを固まらせているようだった。

そこで太一は考えた。この社長が、絶対にうんとうなずくにはどうしたらいいだろうか?
考えた太一の口から思わず飛び出したのは『自動二輪の免許を一発で取って帰ってきたらやってもいいですか?』
これには、みんなが目を丸くした。社長も大きな声で笑い、二つ返事でこういった。
『おーほっほっほ!それならやりなさい!いいよ!そんなことが出来るならやってもいいよ!』
この言葉にもわかるように、自動二輪の試験、それは誰も受けようとしない難攻不落の免許だったのだ。

さて、その自動二輪の免許。今の免許制度の中で、大型二輪といわれるもの。いわゆる自動二輪だ。今でこそ、自動車学校で、誰でも取れる免許になったが、当時は、限定解除と言う言葉にみんな聞き覚えがあるだろう。
これは、自動二輪の免許、中型に限る という限定を解除すると言う意味で 限定解除と言うのだ。だから、25歳以下は必ず、中型を取ってから限定解除を取らないと大型自動二輪には乗れないと言う条例があった。
しかし、事実上、自動二輪の試験というシステムもあることはあった。
その難しさ、いわゆる、限定解除でも何度も落ちる、落とされる、と言うイメージが出来上がって、中型も取らないで、いきなり自動二輪の試験を受ける人など皆無に等しかった。

いや、皆無だった。

当時26歳になったばかりの太一は中型からと言う条例違反にはならない。
だから受けることは出来る。しかし、それを一発で受かると言うのは前代未聞、全く初めてのことなのだ。それにはさすがに社長もオッケーせざるをえない。

太一も、当然受かるとは思ってもいなかった。ただ、やめる前に何かに挑戦したかったこと。言い出してしまった以上引き下がれなかったこと。そんな気持ちのほうが大きかったのだろう。しかしやり始めたら、とことん突き詰めていくのが太一の性分。
ライバル教習所の長柄教習所に『たのもー』と、門をたたいて恥も外聞もなく自動二輪を一発で取ることになりました。と、発言。その教習所でも笑いものにされつつ、それでも、真剣に教えてくださいと通った。
自分の教習所でも借り物のバイクを持ち込んで、休み時間も全くない状態で練習。

そして、いざ試験の日。

当時、教習所で生徒を連れていつも試験場に行っている太一は試験官とも当然顔見知り。
試験官が『山田太一が自動二輪を取りに来たぞ』と話が広がったらしい。
普通、試験塔に二人の試験官が登って見ているのだが、休み時間だろうか、他の試験官もスタンドまで何人も見に来ていた。これは誤魔化しは効かない。
しかも、試験を受ける太一以外の全ての人が限定解除の試験のため、申請書の大きさも違う。一人だけ大きな申請書を持って待っていると、限定解除よりも先に自動二輪の試験が行われると言うのだ。
エンジンがあったまって扱いやすくなってからが良かった太一にはがっかりだったが、
いざ、大勢の試験官、受験者が見守る中、太一は試験を受けた。

太一は今でも忘れないと言う『あのときの試験官の言葉・・・一本橋で10秒を少し切ったからそこで減点したよ・・・とだけ言われて・・・』

合格だった。

スタンドでは歓声が上がった。日本で始めて自動二輪の試験を条例施行後に一発で受かった男。

白バイ隊からもスカウトが来た。

あるオートバイ雑誌からも取材の申し込みが来た。
全てを断った太一。
すぐに教習所に戻り、社長に免許証を差し出してこういった。
『二輪の教習マニュアルをまとめてコースを作ってもいいですか?』

いま、株式会社になった福富自動車教習所。そこには今でも元気に走る二輪の姿がある。

全ては太一が作ったものだ。

太一は言う、あの時は全ての人に大変な協力をいただいた。
特に、試験場前の中島二輪販売の中島のおやっさん。長良教習所のコウタロウ君。尾藤社長。そして、当時働いていた教習所のメンバー。あの協力がなかったら実現はなかっただろう。

そう話す太一の目はいまだ26歳の目だった。

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